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2015.07.20

死者を祀るということ

 死者を祀ることがこれほど難しいとは思いもしなかった。

 夫が亡くなり、葬式をしたら次は四十九日なわけで。葬式はこちらで済ませたが、四十九日は夫の実家で、先祖代々お世話になっているお寺で行って、そのままお骨はお墓に埋葬する。そこまではわたしに異存は無い。

 四十九日が終われば本格的に祀ることになる。夫の家には立派な仏壇がある。なので、夫の位牌は当然そこに入る。うちには子供がいないし、夫は亡くなった。同じく都会に出ている義弟夫婦には男の子一人だけ。舅姑は高齢。この先10年以内に、この仏壇とお墓が大きな問題になるのは目に見えてるんだけど。舅姑がそれを次の世代に先送りにするのだと、舅とちょこっと話してわかった。

 ともかく、

 わたしは分骨してもらって手元に置こうと思った。もうちょっと落ち着いたら、しかるべきところに相談するつもり。わたしは一人っ子で、父は30年以上前に亡くなり、母も高齢。こっちの問題も片付けなければならないから。たぶん戦後すぐとかまでは、こんな問題があたりまえに起こるようになるなんて誰も考えなかったろう。

 で、祀り方だ。夫の実家に立派な仏壇と墓地があり、夫はそこに入れてもらえる。だからわたしはこっちで、好きなように祀るつもりだった。仏壇とか宗教とかにとらわれず、亡き人を偲ぶ。遠くにお墓があってなかなか行けないとか、自分の手元で何かしたいって考える人を中心に増えてきている、手元供養というものだ。気持ちさえあれば、形式にとらわれない。基本は写真とお骨。あとは本人の好きだった物を供えたり、いろいろ。わたしは写真とお骨があるから、あとは花立てや線香立て、ろうそく立てなんかを用意してって。そう思ってた。

 しかし舅姑はそれが気に入らないらしい。ちゃんと自分たちの宗派のやり方で祀れ。ちゃんと位牌も作って。
位牌がなくてどうする。位牌を祀らないのはおかしいだろう。位牌、位牌、位牌、位牌……。

 葬式が終わって1週間。葬式前の3日くらいはまともに寝てないし、昼間は役所を回ったり、いろんなものの口座変更やら名義変更やらやって、やっと日曜日になってゆっくりできると思ってたのに、朝の8時過ぎに電話してきて。位牌を作れ、作らないならこっちで作って……。
 そもそも手元供養とは位牌があってもなくてもよいというものだと説明しても、今はそういう供養の仕方が増えてきているのだと説明しても、位牌を二つ作ったらお盆にどっちに帰っていいかわからなくて迷う、と言っても頑として聞き入れない。
 
 わたしは静かに夫との思い出を大切にしたいだけなのに。昔ながらの方法が悪いなんてひとつも思ってないし大事だと思うけど、形式ばかりにこだわっていては心が入らず、疲れはてて供養自体ができなくなる可能性もある。昔と今では生活様式も全然変わってるから、気持ちさえあれば形式はどうでもいいというお寺も増えてきているという。実際、四十九日までの供養の仕方は、夫の好きな物を供えるだけでいいと言われたので、ご飯じゃなくてパンを供えたりしているし。

 形ばかりよりも祀る気持ちが大事なのでは? しかも疲れてて朝も早くから頭ごなしに言われると素直な気持ちになれない。はじめは素敵なのがあれば、位牌があってもいいかなって思ってたけど、言われれば言われるほど心が硬く閉じていってしまうのが自分でもわかる。だいたいこんな時期のこんな時間にする話なのか。息子のことが大事なのかもしれないけど、年下だけど生きてる人間にも敬意と思いやりを持ってほしい。

 位牌ってそんなに大切な物なのだろうか。だってひとつは立派な仏壇におさめられてるんだよ。それにちゃんとこちらにはお骨があるんだから、それじゃあダメなんだろうか。心さえこもってれば形はどうでもいいんじゃないのかな。祀る気持ちが一番大切だし、江戸時代じゃあるまいし、祀ることを祀り方を強制されるっておかしいんじゃないかな。

 

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